祈り津々と




大坂城内のあちらこちらには、こんもりとした木々が植えられている。
常盤緑の松などは城の中核に位置する内庭に多いが、城壁近いこの場所には
寒々とした冬枯れの裸木や、春の新芽と入れ替わるように役目を終えて
地へと還るばかりの葉を残した大振りの木立が立ち並ぶ。

その木々の影に紛れるようにして、表門から続々と入城してくる
疲れ果てた幕兵の姿を見つめ続ける男の瞳は食い入るように真剣だ。
空を覆う灰色の雲から、時折差し込む蜜色の陽光も男の瞳に映らぬままに。
けれど小さな気配を感じ取ったと同時に、身に纏わせていた緊張感がふいに弛緩した。



「沖田先生っ!」

聞き慣れている。
だがしばらく聞く事の無かった声に呼ばれて総司が振り向いた。

「何をなさっているんですかっ! 今にも雪の降りそうな、こんな寒い中でっ!」

声を荒げる小柄な隊士の呼吸はひどく乱れている。
広い広い大坂城の中を、自分を探して走り回っていたのかと思えば
南天の実のように真っ赤になった鼻の頭さえ愛しくて堪らない。
微かに緩んだ口元に気づいたのか、眼前の人が再び文句を言いかける。
でも、その前に。

「足・・・ありますよね?」

「は?」

唐突に問われた言葉にセイが怪訝な表情を見せた。

「怪我は、無いですか?」

泥に塗れた戦装束を上から下まで確認する視線にセイが頷いた。

「私は無事です。大丈夫です」

「そうですか。貴女はすばしっこいから・・・」

言葉の途中で総司の手がセイの細い首筋に触れた。

「ここは?」

凍りついているかのような指先の冷たさが、男がどれほど長時間
この場所に佇んでいたかを物語る。
緩やかな弧を描く眉根が寄せられた。

「沖田先生。とにかく部屋に戻りましょう。身体を温めて、話はそれから」

「ここは?」

触れた首筋から視線を外そうとしない頑なな様子に、仕方なくセイが答えた。

「鳥羽の堤で鉄砲玉がかすっただけです。大した事はありません」

「鉄砲傷、ですか・・・」

この人の身を守る為に自分ができる唯一の事と思い定めて、持ちうる全てを
注ぎ込んだはずの剣技も、最早この時勢の中では役立たないというのか。

刻一刻と蝕まれているだろう総司の胸の病巣が空洞となり、
冷え冷えとした木枯らしが音を立てて吹き抜けてゆく。


「でもっ!」

幾度も傷の近くを滑っていく指先がくすぐったかったらしいセイが、総司の手首を抑えた。

「こちらへ戻る時に何度か敵と剣を交えた時には、一度も傷など負いませんでしたよ!
 永倉先生の背中を守らせてもらったんですから!」

寒さのせいか語った内容のせいか、頬を上気させ瞳を輝かせる姿はたいそう得意気だった。

「永倉さんの背中ですか? それは凄いですね」

「でしょう? 『神谷、俺の背は任せたぞ』って言って・・・くれたんです」


言葉の途中からセイの瞳が揺らぎ出した。
握られた総司の手首へと微かな震えが伝わってくる。
その言葉を告げられた時の惨憺たる情景を思い出してしまったのだろう。

傷ついた仲間に肩を貸した永倉は刃を揮う事が出来ない状態だった。
隊士の手当てをしながら付き従っていたセイが敵と切り結んだのは何度だったか。
とにかく大坂まで辿り着けば、と祈る思いだったその同志も途中で息が絶えた。
埋葬する事は勿論、悼む暇さえ無く、僅かな遺髪と懐の持ち物だけを
遺品として預かる事が精一杯の敗走だったのだ。

泣き言が零れ出しそうな唇を強く噛み締めた時、空いていたもう片方の手を
そっと握られてセイが眼前の男を見上げた。



「我慢、しないでいいですよ?」

「沖田先生・・・」

明るい色味の着物が好きだったこの男が、墨染めとも見えるほどに濃い
鼠色の綿入れを着るようになったのは、己の吐いた血の汚れが
目立たぬようにだという事をセイは知っている。
握り締めている手首も、すでに女子の自分と変わらぬ程に細くなっている。
誰よりも戦場に出て敬愛する兄分達の力になりたいと。
病の身で無為な時を過ごしたくないと。
背負ってしまった不幸を憂えて、いつもいつも我慢をしているのはこの男のはずなのに。
我慢するな、泣き言を言え、と穏やかに微笑んでセイを促す。

痛みさえ覚える切なさに、セイが俯き再び唇を噛み締めた。

「ほら、言ってごらんなさい?」

すい、と硬い親指が唇の端を撫でていった。
弱音を聞かせまいと固く閉ざされた岩戸を開けようという如く、
そっと優しく幾度も指が掠めていく。

「貴女の事です。他の誰にも弱音や愚痴など言えないでいたのでしょう?
 ここなら私だけです。言いたい事を言って良いですよ?」


触れ合っている総司の手がようやく温もりを取り戻してきたように感じたセイは、
今にも雪の降りそうな中、この男が何故こんな場所にいたのかようやく気づいた。

総司は先に戻っていた土方から戦況を聞いていたのだろう。
殿(しんがり)に近い場所にいたセイが無事に戻ってくるのを表門が見える
この場で確認し、胸の内に必死に押さえ込んでいた悔しさや悲しさを
一時だけでも開放する場所を作ろうと、この場で待っていたのだと。
城で怪我人の手当てに奔走する前に、僅かであれ張り詰めた心を解すために。

あいにくセイは搦め手口から入城したために先に土方と会い、総司がふらふらと
出歩いたまま戻らないと聞いて、慌てて探しに出たのだった。

「城内へ入れば、また貴女は走り回る事になる。多くの負傷者の前で弱音は許されない。
 今だけです。私が聞いてあげるから、全て吐き出してしまいなさいな」



手が届くほどに低く垂れ込めていた雲から薄日が差す。
その輝きに照らされながら、はらはらと細やかな雪が舞い落ちてきた。
これほど寒い日で無ければ狐の嫁入りと呼ばれる晴雨となっていた事だろう。

固く引き結ばれていたセイの唇が小さな音を紡ぎ出した。


「・・・私は、何もできなくて・・・」

「はい」

風に吹かれた足元の枯草が立てる音よりも尚小さな声音に、優しい相槌が返る。

「一番隊の皆が、目の前で倒れていったのに・・・」

「ええ」

「次々に怪我人が運ばれてくるのに・・・」

「はい」

「薬も血止めの布も足りなくなって・・・」

「はい」

添えられたままの硬い手の平に甘えるように頬を擦りつけたセイの眦から
一筋、また一筋と透明な雫が伝い出す。

「山崎さんも・・・」

「ええ」

「井上先生も・・・」

「ええ」

「私は何も・・・何も出来なかった・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

セイに握られたままの総司の手首が、痛みと共に悔しさと悲痛な嘆きを伝える。
これ以上、言葉にする事もできぬように俯いたセイの顎先から止め処なく雫が落ちていく。
かけるべき言葉を見つけられない総司も、そっと唇を噛み締めた。



自分は女子では無く武士なのだと言い張って隊に居続けたこの娘は、力が足りないと
悔しがる時も、大切な仲間を失った時も、いつも童のように大声をあげて泣いていた。
涙と鼻水で汚れた顔を、幾度拭ってあげた事だろうか。
意地っ張りで純粋で、けれど己の感情を抑える事が何より苦手だった人が、
声を殺して静かに涙を流すようになったのは何時からだったのだろうか。

考えるまでも無く総司は知っている。
常に最も身近に居た、慕わしい男の病を知ってからだ。
ふたりの親密さを知る仲間達は総司同様、セイに対しても腫れ物を扱うように気遣いだした。
自分を案じる仲間の思いに気づかぬセイではない。
同志に心配をかけぬよう、総司に不安を感じさせぬよう、誰の前でも笑顔という仮面を被り、
人目につかぬ場所でこうして涙を流していたのだ。
口にせずとも、その場を見ずとも、総司にはわかっていた。
噛み締められた痕の残る唇や、微かに赤味を残した瞼に気づかぬはずがない。

けれど何も出来なかった。
本当に何もできずにいたのは自分なのだ。
日に日に弱りゆく身体を知りながら、今日は総司が昨日よりも飯を多く食べた、
咳き込む回数が少しだけ減ったと、小さな事に一喜一憂する娘に何ができただろう。
泣くな、など言えはしない。
どこまでも近しいと感じている人間の命の灯が消えようかという事に、
優しい娘が嘆かずにいられようか。
かといって以前のように自分の胸で泣かせる事もできない。
悲しませている張本人の前で、心のままに泣けようはずもないのだ。

結局自分は何も出来ぬまま、この人は声を上げて泣く事ができなくなった。


「神谷さん・・・」

「私など! 何も出来ない私など、せめて井上先生の代わりに」

「神谷さんっ!」

総司が硬く強張った声でセイの言葉を遮った。
確かに自分達は何も出来ないかもしれない。
まるで嵐の中に放り出された笹船のように、行く先も見えず舵も取れず
ただ激しい流れに翻弄されるだけなのかもしれない。

けれど・・・。

「お帰りなさい、神谷さん。貴女が無事に私の所へと戻って来た。私はそれだけでいい。
 貴女が約束を守ってくれたから、私にも光ある明日が訪れる。貴女が生きている。
 それが私にとって何よりの光なんです」

だから命を投げ出そうとなどしないで欲しい。
総司の祈りにも似た想いが、傷つきひび割れたセイの心に沁みていく。

「沖田先生・・・」

「私の光を、取上げないと約束してください」

見上げたセイの瞳には、真摯な色を湛えた慕わしい男の面があった。

「神谷さん、約束」

再び掠めるようにセイの唇に指先が触れる。
病の感染を何より恐れる男の、精一杯の触れ方だった。

「・・・はい。約束します。約束します、沖田先生・・・」



冬枯れの木立に雪が降る。
微かな音を奏でながら舞い落ちるそれは、総司とセイの想いの如く。
慈しみと無事への願いを積もらせる。

動かぬふたつの影をも抱くように。
清らかな祈りは真白な羽となり大地を覆った。